pben’s blog

独り社長の酒場トーク

ヤマダ

ショックで悲しくて悔しい


GWいかがお過ごしされましたか。オイラは7日間程函館に滞在して昨日幕張にカムバック。
本当は”激走760キロ!高速・フェリー14時間!”みたいなネタをアップしたいろこですが、訃報が見に入りました。今現在もショックから抜け出せていないんですけどね。

遡ること20年程前ですかね、実はオイラ今とは大きく異なる、キャリアとも少し逸脱した職経験がありして。進学・教育系の広告媒体やイベントを企画する会社に勤めていたんですけど、当時若くして異例の抜擢?要は売上実績を上げまくって、東北初の支社を仙台に立ち上げ・支社長として勤め上げた経験があります。あれは御年30歳にも満たない頃だったかな。同時に嫁チャンと当時1歳くらいのJr.、今は北の大地で勉学を勤しんでいるJr.と3人で仙台に住んでいたんですよ。
東北の大地も初で、現地社員も現地の連中を採用し、3年程勤め上げました。

確か計5名ほどスタッフを抱えてましたが、その中で1コ下の荒々しい若手がおりまして(若手とはいえ当時そもそもオイラも結構若いけど)彼の名前は山田。岩手は水沢市出身で先代の私大を出てなぜか飲み屋街国分町でしばらく黒子・バーテンをやっていた異例のキャリアの男でした。

GWに彼が最終的に勤務していただろう、青森営業所をアポなし、サプライズで立ち寄ったんですが、そこで現青森営業所スタッフから驚きの知らせを耳にして。「山田さん、2019年10月に突然心臓発作で他界しまして、、、」と。

仙台を去ってから、しかも退職したのもあって、ベタベタと連絡し合ったりすることはありませんでしたが、震災の時とか、最後は2018年冬だったかたと思いますが、再会しようとオイラから連絡はした記憶があります。その時に今も勤務していること、後任支社長と喧嘩し一度退職したが、青森営業所立ち上げと合せて復職したこととか、結婚を控えており出来ちゃった婚するとか、そんな会話をしたんだっけな。結局再会はできませんでしたが。

函館行きフェリー乗る前に青森でしばらく唖然、茫然としました。知らなかった、、、6年弱前に死んだんだ、山田もうこの世に居ねえのか、と。。。
当時シゴトの最終でパーキングに止めてあった車に戻った際に突然心臓発作を起こしたらしい。青森に奥さんはいまだおり、結局お子さんは死後1か月後にこの世に誕生したらしい。その他詳細は色々伺いましたし、当時の仙台のスタッフに何人か連絡取ったけど、あまりにも突然のできごとでバタバタしたたしいです。当然疎遠で遠方の俺ごときには連絡とか手がまわらなかったんだろうことは事実。

この山田ってどんな男かというと、背が高くイケメンの野武士というか。アタマは良かったのは事実でただどことなく思慮深い闇があるような少し反社会的な思想もありそうな目つきだったかな、イケメンで非常にモテてた。とはいえ俺から言わせると田舎地方のイケメンというか 笑 実際東京に対し異常な過剰な思い込みコンポレックスとかあってそれは可愛かったです。絶対的な信頼と愛情と想いさえ供与すれば、期待以上に実力も情熱も発揮する、シゴトにも情熱を注ぐタイプで、なんどか俺はそれで助けられたりもしましたね。あくまで上司と部下という関係でしたので時に叱咤や説教もしたんだけど、割と素直にきいてくれた(メチャクシャ反論抵抗もしてきたけど)。当時一緒に仙台に住んでいたオイラの家族へもプライベートでめちゃくちゃ世話してくれたり助けてくれました。エピソードは尽きませんが、例えば急に休みの日にカノジョとウチにギョウザの素材買い込んできて「奥さん、俺が美味しいギョウザ作りますのでキッチン借ります!」とか、遠方に出張行ったと思ったら、山小屋の人みないな格好で帰ってきて、「山でキャンプして寝泊まりしてきました!」とか、勝手に社用車のバンにウーハー?やらブルーのライトの装飾してきて帰社し「先生(彼はオレをなぜかそう呼称していました)!見て!カッコいいでしょ」とか ね苦笑。間違いなく社員としては実力者で、俺は将来後任で支社長やるなら山田だなと思っていました。
ピュアなだけの人だったと思う。実直で素直でまっすぐで。東北ではお客さんからもめちゃくちゃ好かれてたし、逆に社内や本社上のほうと揉めることは多発していました 苦笑。ただ、俺にはなついてましたね。。。アタマはいいはずだけど、決して器用なほうではなかったので、会社ってルールとかやりかたあるじゃないですか、そういうのは守れず要らぬ苦労はしちゃうタイプでした。ただし、シゴトに対する本気さ熱とかは飛びぬけていました。オイラとは違う意味で公私混同のタイプだったんでしょうね。絶対に小手先ではシゴトしない、やるなら本気、そういう男でしたね。異常者とも言えるくらい変な性癖とか女グゼあった、笑えないときあったけど 笑

今はまだまだ思い出回顧も整理もできませんが、思い出すのはオイラが千葉に戻り退社決まった時に一言山田に言われたんですよね「先生、事情も将来のこともわかる。先生は仙台で終わるタイプじゃないっす。でも、先生、要はオレも東北も置いていく、捨てていく、そういうことですよね?それは事実です。俺は忘れないっす」と。

人生、キャリアを生きていると、特に最近だとまさに今のオイラの会社もそうですけど、若手というか後輩育てなきゃな、捕まえなきゃって思うんですけど、オイラ的には能力・知識・語学とかはいかようにでもなるかもと思っていて、大事なのでは情熱と想いとオイラが彼/彼女なら会社は勿論公私の財布(銀行、資金、運用)を安心して預けられるくらいの信頼感なのです。そういうのって滅多に巡り合えないんだけど、山田はそう思えるくらいの独りだったし、亡き今思うとなんとなくいつか流れでこっち千葉連れてきて俺の会社に入れたいと思っていたかもしれない。自然とそうなるかなあって根拠なく勝手に思っておりました。
少なくともモノではなくヒトですが、一生涯モノだった山田は。

今はただ山田亡きこの世での、喪失感と山田が去ったことへの虚無感と哀しみと悔しさだけが残る。

山田、好きなように生きただろうけど、悔しかったろうな。
死んじゃいけない1人をオイラは失っちゃったよ。

水沢の墓に早速行ってこようと思っています。なんだか泣けれくるよ山田、ちくしょう。

忖度とかやってるフリとか自分さえ誤魔化しているような嘘の満足感とか肯定感とかそういうんじゃなくて、今日と明日を正直に実直に生きよう、真に後悔無き人生を歩もう、そんなふうに山田の訃報をきいてあらためて思った次第。